since1793     Amiben Graffiti 1930-1978 




= 口 上 =

 広重の『利根川ばらばら松』の図の時代、それ以前からこの土地には船宿『あみ弁』があって、宿の奥には何びとも立ち入り禁止の離れがあり、その離れは参勤交代で江戸にやってきたお殿様ご一行がお使いになり網船を楽しんだ、わが『あみ弁』は当節9代。ふる〜い写真もたくさんあるだろうと思いきや、さにあらず。近年たびたび火災にあい、資料も写真も何にもないのでございます。残念ですがしかたがない。

 思うに、幕末、明治の初期。この国に『写真』という謄写技法が入ってすぐ、新しもの好きのお殿様やら、のちの華族の方々やらお大尽やら、網船の写真を山ほど撮って、ご褒美にわが家へ賜ったと思うのですが……。写真があれば『写真博物館ゆき』、この国の貴重な歴史ドキュメントだったはずで……(大層な!)



祖父と親父の網船グラフティー

 

昭和10年ごろ

 幕末、明治、大正時代の写真はありません。ここらがもっともふるい写真です。先々代の小島一二三(ひふみ)の青年時分です。景色がないので場所の特定はできませんが、旧江戸川から出た先の葛西沖だろうと思われます。これが昭和初期の『網船』です。お客様は4、5人。舳先に舵子、艫に舵子、もう一人、天ぷら揚げのクルーが乗っているようです。魚はほぼセイゴ・フッコですね。一見、櫨櫂船のようですが、双発の焼き玉エンジンがついていて、網打ちするときは、櫓でこいで、魚にそろりと近寄ってゆく、というやり方でした。


昭和25年ごろ

 祖父で先々代の網打ち名人・小島一二三(ひふみ)のショットです。足・腰・肩の力配分に無駄がなく、巨大で重いスズキ網を実に軽く投げています。



昭和25〜35年ごろ

 親父の一則です。現在60歳代でなお現役ですが、写真は10代から20代前半。
 下段・左の写真にご注目。少しだけ屋形が見えています。檜茅葺きの屋形をつけて江戸情緒を演出した船もあって、取り外しができました。



昭和35〜45年ごろ

 一則、30歳代です。ナイロン糸の網が普及する前はほぼ綿糸の網でしたから水を吸うと非常に重い。この重い網を日々打つわけで、結果、体格も筋肉も『網打ち漁師』のそれになってゆく。上の葦原をバックにした少年のころとずいぶんちがうな〜。それにしても、お客さまは興味津々で見守っています。獲れたら拍手喝采。魚が入って、親父も満足げです。『ほら、これがコノシロです』とかなんとか言って、魚種を説明しているのでしょう。






鴨撃ち船のこと

昭和35〜45年ごろ

 ちょっと脱線します。夏場の網船人気は大層なものでしたが、冬になると今度は鴨撃ち船という船遊びが人気を博しました。読んで字のごとく『鉄砲(散弾銃)を持って鴨を撃ちにゆく』。かつて江戸川の葛西、浦安、行徳まわりはどこもそこも大葦原で、季節になると想像を絶するほどの鴨を中心とした野鳥の杜でした。そして鴨場が設定されており、かような商売が許可されていたのです。
 漁師でなく、猟師をのせた鴨撃ち船はそろりそろりと葦原に近づいてゆく。舳先に犬が乗っているのが分かりますか?
この犬をけしかけて葦原に放つ。犬は泳いで葦原深くどんどん入ってゆく。驚いた鴨は一斉に飛び立ち、逃げる。それを猟師がテッポで撃ってサ、煮てサ、焼いてサ、喰ってサ♪  夏は網船。冬は鴨撃ち船。コタツには鍋が据えられていますが、現場でさばいて鴨鍋にした、という訳ではなさそうです。それにしても真ん中のお客さん、得意げだな〜。そりゃそうです。鴨は高級食材ですもんね。うまいに決まってる。

 

昭和20年代

 では、その鴨打ち船を誰が流行らせたのか。はい、進駐軍です。焼け野原と化した東京で唯一、最高のレジャーといったら目と鼻の先にいる鴨を撃つこと。写真の彼はおそらく将校で、胸に燦然と輝くのはライカのキャメラ!? GHQにもどり、仲間に、『きょうは100羽撃ったゾ』と自慢したかどうか、そんな溢れる笑顔の軍人さんです。鴨はほとんどお土産にせず、宿においてったようです。夜はご近所をまねいて大鴨鍋パーティー! 食糧難の折、貴重なタンパク源だったようです。


昭和30〜60年代

 真ん中が父の一則で、他は近所の漁師で猟師の仲間です。進駐軍に教えてもらったこんなに楽しい遊び、ほかにないと、仲間みんなで散弾銃を許可購入! せっせと鴨場に『網船』を走らせました。葦原から飛び上がった鴨の頭にだけ散弾を撃つ、それが名人というもの、だったそう。店には今も剥製が飾ってあり、夏、網船で来たお客がこれを見て、さっそく冬には鴨船に乗った、というわけです。
 鴨にもいろいろ種類があります。右すみのは、なんとキジです! 昭和60年くらいまで、役所による鴨場の区域設定があったようですが、平成の現今、消滅しています。

以上、『あみ弁グラフティー』でした。