Amitei Graffiti 1930-2003 


網船三代グラフティー

タニマチと網船

昭和初期〜15年ごろ


 三代前のあみ貞(あみてい)の祖父、小島貞蔵の網船全盛期の写真です。鉄橋は今の江戸川・浦安橋です。お客様は、異様なるかな全員山高帽にネクタイ、スーツ姿。外套をはおっているので季節は秋口から初冬と思われます。
 なぜスーツ姿なのか。それは『タニマチ(※俗語。そのむかしの歌舞伎や相撲などのスポンサーのこと)のお大尽遊び』だったということです。タニマチは正装で網船に乗る。網船はチャーターではない。実はご贔屓の船宿に彼らが造り与えてくれたもの。もちろん高価な、小さい発動機が付いていて、それに乗って船頭に豪快な投網を打たせ、ビジュアルとして見て楽しむ。魚を捕らせる。天ぷらで、お造りで食して江戸前を堪能する。
 異様がもう一つ。祖父は山高帽をかぶって網打ちしています。タニマチの高価な贈り物だったと思われ、それをかぶって網打ちすることがステータスだったのでしょう。



投網漁と『寄せ打ち』

同時代


 同時代の『投網漁』の様子です。舵子と打ち子だけの小さな漁船はエンジンなしの櫨櫂船で、これは自前。普段は単独で漁に出ますが、時に何隻か集まって『寄せ打ち』という漁をしました。タイミングを見計らって次々に投網を打ってゆきますが、最初に打つ人は仲間内で決まっており、『名人』が第一投を打った、ということです。祖父は名人中の名人だったそうです。



定員5〜6名の小さな船でした

同時代


 上のタニマチは、な、なんと、この国の中央銀行のお歴々、日本橋の某百貨店のお歴々、株式会社東洋メッキ(東京に現存せず)のお歴々。皆さん楽しげです。小さな小さな定員5〜6名の網船でした。



網打ちのカッコよさ

終戦直後〜昭和25年ごろ


 親父です。小島鋳造は当節80歳を越えていますが写真は20歳時分。実にカッコいい網打ちです。足・腰・肩の力のバランスが均等で無駄な動きがない。完璧です。だからカッコいいんです。真似ができません。獲物は100センチオーバーの江戸前巨大スズキ。隣りはお客様のようです。



あみ貞桟橋前

同時代


 戦後すぐの江戸川・今井橋のあみ貞桟橋前です。桟橋の真ん前で漁ができたんです。



本・江戸川、行徳あたり〜鴨打ち船

同時代


 向こうにある家の屋根は茅葺きのようです。なにやら長閑(のどか)でレトロだなぁ。で、上段真ん中の写真に注目です。お客様が誇って手にしている獲物は魚じゃありません。鴨です、鴨!なんです。
 【鴨打ち船のこと】
 散弾銃を持って船を仕立て、鴨場に出かけ、銃を打っては鴨を仕留める。昭和60年代までこのような船遊びがありました。詳しくは別ページ『あみ弁グラフティー』で。


現あみ貞・小島貞明でございます

昭和50年ごろ


 20歳のころの私です。浦安沖の沖埋め工事が始まった時分、今のディズニーランドあたり〜葛西沖です。漁で鍛えた投網を網船でお客様に見せる。すでに一人前でした。船もずいぶん大きくなって12人程度は乗れました。獲物はスズキ、コノシロですね。網が持ち上がらないほど獲れた時代は昭和30年代まで。40〜50年代は湾奥大埋め立て工事時代で、漁がダメになると船遊びとしての網船も下火になりました。


投網パフォーマンス

昭和62年〜平成〜現在


 船宿の起死回生は、昭和60年代に入って大型の屋形船が登場してからです。日本全国大バブル時代。ひっきりなしに屋形船を出していましたが、網打ちを見せるようになったのはここ2〜3年のことです。それはむかし取った杵柄、たとえ船が大きくなっても、打つのに苦労はありません。魚が入るかどうかは別として……!