旧くて新しい話を集めるのも活動の一環と、雑学集としてここにページをおきました。資料、文献を漁る作業、そして聞き取り取材は、始めたばかりなのでご覧になる方には品薄でこころ苦しいのですが、新たな見聞を日常的に収集、順次掲載しますので、このページもどうぞご贔屓に。


この紋所はどこのなに? 大和朝廷時代?



 『三つ網』という紋所です。ズバリ、投網の意匠です。これがなんと、あの三社様(東京・浅草神社)の紋所だなんて、ご存じ?
そして三社様は漁師のお三方をお祭りしている。だから『三社様』といい、三つ網なんです。三社祭りは毎年5月中旬、3日かけて行われ、150万人の人出があります。にぎわいばかりが報道されますが、元来は漁・船・海のおごそかなお祭りなんです。
 ところで、この紋所がいつ採用されたかは不明ですが、古いことには違いなく、形状は別として投網は太古の一本釣りの次に来るのかどうか、えらく古い漁具?!



 
広重が描いたわが家の桟橋前 文化・文政年間

 絵は江戸名所百景『利根川ばらばら松』ですが、江戸川の堀江、葛西、長島あたり、川向こうは千葉・東葛西とありますから、今の船宿〜桟橋の200年前の図そのものといえます。葦の間に間に数隻の網打ち船。手前から投網がバサッと広がって臨場感があります。ときに、地元でもっとも古いのが『あみ元(もと)』で、当節15代。『あみ弁』が9代。広重の時代も現役ばりばり。船に名があって読みとれたら涙がでちゃうんですけど、角度が悪い、名が見えない。ありゃ絶対ウチのご先祖さんの船だ!



 
『品川湾の投網』という本 大正14年発行

 現在『あみ徳』所蔵。当会のバイブルです。
 先々代のあみ徳、あみ元、ほか方々に取材し、漁の様子もバッチリ出ています。

 この本の面白さは、桐島像一という著者が粋人で、某男爵に誘われ、網打ちを見に行ったのが執筆の動機になっていること。以来投網にはまり、自らを愛漁家で道楽者と言っています。愛漁家は習って投網を打つ。先生は浜にいる。釣りに出かける以上に『網打ち』が世の粋人たちのレジャーになっていたらしいのです。もちろん獲れた魚をお造りで、天ぷらで食したに違いなく、愛漁家としては当時の華族のお歴々の名も多く登場しています。
 由来、網打ちを学び、その解説もしていますが、当時の各浦々が漁場としてどれほど豊かだったか、どれほどの漁師がいたか、網打ちの好ポイントなど調査データがあり、これ貴重で重要。



 
■流祖『細川の政』という人 幕末〜明治




 『品川湾の投網』によれば、流祖の本名は細川政吉で、通称、細川の政といったらしい。明治維新の頃、細川藩(熊本)の藩士とともに『網打ち』として江戸に来たといわれています。
 当会で、わざの伝承・保存につとめている「す
くい取り」(すくい打ち、あるいは本振りともいう)を江戸に広めました。ちなみに「二つ取り」「三つ取り」という網打ちもあり、これは土佐流ともいわれます。
 このすくい取りを細川政吉の名にちなんで細川流投網といっています。細川政吉が細川の姓を名乗ったのは通称をそのまま用いたのか、細川家の許しを得たものなのかは定かではありませんが、戸籍には確かに細川姓が記されているとか。明治12年8月12日没。享年72歳。浦安・華蔵院(けぞういん)に葬られています。


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